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私達は長唄の三番叟を演奏します。

三番叟物と云われるほど、長唄には色々な三番叟があります。

子ども達と一緒に演奏するのは、雛鶴三番叟、たまに操三番叟ですが、その他に、古式ゆかしい翁千歳三番叟、ちょっと滑稽な舌出し三番叟など。

 

では、三番叟って何だろう?という疑問から、「三番叟を知ろう、体験しよう、聴いてみよう」という講習を行いました。(瑞穂図書館主催行事)その記録です。

まず能楽の翁を調べました。

 

この《翁》のルーツは、古代より続く、大寺院において国家の安泰を祈る法会「修正会(しゅしょうえ)」・「修二会(しゅにえ)」にあります。これらの法会では、密教の法力によって国家の安泰を祈る役目の「呪師」が、法会の主宰者である大導師と並んで国家の安寧を祈るのですが、その呪師のもつ霊力を芸として表現したものが、この《翁》であると考えられています。

《翁》の冒頭に謡われる「とうとうたらり…」という独特な呪文も、従来は由来不明とされ、笛の譜を真似たものかとする説なども出されていたのですが、近年の研究によって、比叡山延暦寺の根本中堂で行われていた呪師の作法の中に似た文句が見出されることが判明し、法会の場で唱えられていた祈りの呪文を写したものであることが明らかになりました。( 銕仙会 能と狂言 翁 文:中野顕正)

なるほど、とうとうたらり~はそのような呪文だったのですね。

翁の次に千歳が出てきます。千歳は「鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずとうたり」と謡います。

あれ?この文句、長唄勧進帳に出て来ますね。平家物語にも出て来ます。延年の舞がなんちゃら、という場面です。

水は命の元、日は照るとも涸れることなく流れる瀧の水は、古代人の理想だったのでしょう、祈りだったのでしょう。言霊を信じていた人々は、何かの折に、「日は照るとも絶えずとうたり」と唄い舞ったのでしょう。

余談ですが、つい先ごろ、昭和の時代までは、田んぼの水を確保することは、人死にも出たほどの真剣な事でした。祖母は、夜明け前、朝の4時、5時に田んぼに出かけ、水が田んぼにあるかどうか、水口が荒らされてないかどうか、見回リマした。田んぼに水を入れるには、ちょろちょろ流れる用水を堰き止め、田んぼに流入するようにします。堰は板切れと泥、十分な量の水が田んぼに溜まると、田んぼの水が流れないようにしてから、堰を外します。

「根性の悪いもんな、知らん顔して堰を引っこ抜いていく。」

怒っていた祖母の顔が目に浮かびます。

さて、三番叟です。三番叟は「おおさえ おおさえ、喜びありや、我が此のところより 他へはやらじとぞ思う」と謡います。

三番叟の「叟」は、年取ったお爺さん、という意味です。昔は智慧の詰まった年寄りは大事にされました。老体の神が村落に祝福をもたらしてくれる、神はお年寄りの姿で村にいらっしゃいました。(ホントか?)

で、このお年寄り、ではなかった神様は、「幸いがあった、喜びがあった、自分のとこより他へはやらんとこ」と唄うのです。(ちょっとケチですw)

お能では、三番叟は狂言師が舞います。しかし舞うとは言いません。「三番叟を踏む」と言います。反閇(へんばい)の名残でしょうか。

※へんばい【反閇】

陰陽師邪気を払い除くため呪文を唱え大地を踏みしめ,千鳥足に歩む呪法三足,五足,九足などさまざまの種類がある。平安朝以来天皇・将軍など貴族の外出にあたって多く行われ,悪い方角を踏み破る意味があるという。土御門(安倍)家の秘法では反閇のとき燃灯し,水,米,大豆,ゴマ,アワ,麦,酒,生牛乳などを用意して散供(さんぐ)を行う。平安朝,陰陽道の進出につれ,日本古来の鎮魂作法が反閇と習合し,神楽が芸能化する中世にはそれに伴って反閇も《翁》《三番叟》《道成寺》など猿楽にとりいれられ,乱拍子(らんびようし)などとも呼び,祝福的意味をもつようになった。(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

三番叟の最初の部分は「揉み出し」と言います。チョン チョン スッチョンチョンで始まり、前へ前へとリズムを刻みます。一説によれば、「揉み出し」は籾殻から出すこと、だそうです。芽が出て、苗になり、大きく育つように、囃します。使う扇は、日の出の模様が描かれています。
後半の部分は「鈴の段」、稲穂に見立てた鈴を振りながら、ホンホヒトウロと後ろへ後ろへと納めていくようなリズムを採ります。使う扇は、蓬莱、亀の背中に松竹梅、種を撒いて次の世代へ渡す、自分は亀さんの背中に乗って蓬莱の国へ旅立ちますよ、という意味でしょうか?(いいですねえ。このようにこの世からおさらばしたい。)

 

三番叟は各地の神社で祭礼に奉納されました。

古いところでは、奈良豆比古神社、鵜甘神社(福井県)新野の雪まつりも有名です。新野の雪まつりを取材した折口信夫は次のように述べています。

 

※舞踊アソビを手段とする鎮魂式が、神事の主要部と考へられて来ると、舞人の長なるおきなの芸能が「翁舞」なる一方面を分立して来ます。雅楽の採桑老サイシヨウラウ、又はくづれた安摩アマ・蘇利古ソリコの翁舞と結びついて、大歌舞オホウタマヒや、神遊びの翁が、日本式の「翁舞」と認められたと見ても宜しい。 

尾張ノ浜主の、「翁とてわびやは居らむ。草も 木も 栄ゆる時に、出でゝ舞ひてむ」(続日本後紀)と詠じた舞は、此交叉時にあつたものと思ひます。翁舞を舞ふ翁の意で、唯の老夫としての自覚ではなさそうです。

おきなさぶと言ふ語も、をとめさぶ・神さぶと共に、神事演舞の扮装演出の適合を示すのが、元であつた様です。

翁さび、人な咎めそ。狩衣、今日ばかりとぞ 鶴タヅも鳴くなる

と在原の翁の嘆じた、と言ふ歌物語の歌も、翁舞から出た芸謡ではなかつたでせうか。古今集の雑の部にうんざりする程多い老い人の述懐も、翁舞の詠歌と見られぬ事もない。私など「在原」を称するほかひ人の団体があつて、翁舞を演芸種目の主なものにしてゐたのではないかとさへ思うて居ます。        ( 折口信夫全集 2 「翁の発生」から)

 

不思議な芸能三番叟、ルーツを探れば深く農耕と結びついた神がかりの芸能であったことが分かりました。でも、まだ分からないことだらけ、しかも、農耕と切り離された生活の中で育つ現代の子ども達には縁遠い話、さてさて…。

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